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つながる支援を考える

まだはっきりしたビジョンがあるわけではありませんが

「学びを止めない」そして「少しずつ足場かけを外す」ための

日本語教育・環境整備・コミュニケーション支援として

自分はどのように立ち回ることができるのか

そしてどのような人生を歩んでいきたいのか


このような日本語教育を契機とした場を創り、動かしそれが

その時々にフィットする形で持続する「場の共有」についてここ数年考えています


そんな中で

徳永智子・角田仁・海老原周子さんらが編著の

『外国につながる若者とつくる多文化共生の未来』明石書店は

とても示唆に富む内容でした


特に日本語支援の現場は、ともすれば

「日本語が(日本語母語話者のように)できない外国の人に

マジョリティである日本語母語話者が教える」と言う構造に簡単に陥り

当事者(学習者)不在のまま行われていたり

日本語ができないことが「かわいそう」と言う対象になってしまうことも、無意識に、起こりうると思っています


「私たち外国籍として暮らす人は

そういう情けをかけてもらう存在じゃないし

ほっといてほしいんだよね、支援とかサポートって言って善意の押し付けキツい」

数年前、同じく在日外国人と育った友人と語ったこと


それをきちんと言語化してくれた本です


博士課程時代、論文を書くことの矛盾と限界があって

自分に対して感じた「何様なの」と言う思い


研究者として、現場の声を代弁者として届けるんだと

その気持ちに偽りはないけれど


一方で、一人一人が声を上げられ、それが束になることが

研究者1人が声を上げるより、実は大きな社会変革ではないかと


一人一人が声を上げることは、その一人ひとりがより良く生きると言うことそのものだと思う


現場に立ち続けるのは、どうしても時間の切り売り的な状況に陥るので

担当できる授業数は限られてしまうけれど


現場にいるからこそ

日本語教育の技術も、教育観も毎回突きつけられ、揺さぶりをかけられ、そして実践する中で、少しアップデートする、何年か前言われたことをふと理解する瞬間があったりする。

また、理論の検証にもなっている


しかし、現場の時間はいつも限られているので

授業が終わるとそこで支援が終わることがほとんど

地域の日本語教室に繋げれば、機会はつながるだろうが

無償のボランティアが大半を占めていると考えられる中

いつまでも善意に頼った施策になる

そうするとやっぱり「善意の押し付け」も生じるのではないかと言う懸念も出てきて


この堂々巡りで、どのように「仕事として」アプローチできるのかと言う視点で

考えています


その試行錯誤の繰り返しがWebサイトの引越し


具体的なビジョンは見えない中「エンパワメント」だけは確信を持っていて

そしてやっぱりそれは「現場」からしか、見えてこない


人との繋がりはライフステージやその人の成長度合いに応じて

繋がったり離れたりして

だから、固定ではなく形を変え、その時々に集う人々でできる「共有の場」


私は日本語教師として、社会にどう貢献できるだろうか。





 
 
 

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