つながる支援を考える
- 博子 武内
- 2023年9月5日
- 読了時間: 3分
まだはっきりしたビジョンがあるわけではありませんが
「学びを止めない」そして「少しずつ足場かけを外す」ための
日本語教育・環境整備・コミュニケーション支援として
自分はどのように立ち回ることができるのか
そしてどのような人生を歩んでいきたいのか
このような日本語教育を契機とした場を創り、動かしそれが
その時々にフィットする形で持続する「場の共有」についてここ数年考えています
そんな中で
徳永智子・角田仁・海老原周子さんらが編著の
『外国につながる若者とつくる多文化共生の未来』明石書店は
とても示唆に富む内容でした
特に日本語支援の現場は、ともすれば
「日本語が(日本語母語話者のように)できない外国の人に
マジョリティである日本語母語話者が教える」と言う構造に簡単に陥り
当事者(学習者)不在のまま行われていたり
日本語ができないことが「かわいそう」と言う対象になってしまうことも、無意識に、起こりうると思っています
「私たち外国籍として暮らす人は
そういう情けをかけてもらう存在じゃないし
ほっといてほしいんだよね、支援とかサポートって言って善意の押し付けキツい」
数年前、同じく在日外国人と育った友人と語ったこと
それをきちんと言語化してくれた本です
博士課程時代、論文を書くことの矛盾と限界があって
自分に対して感じた「何様なの」と言う思い
研究者として、現場の声を代弁者として届けるんだと
その気持ちに偽りはないけれど
一方で、一人一人が声を上げられ、それが束になることが
研究者1人が声を上げるより、実は大きな社会変革ではないかと
一人一人が声を上げることは、その一人ひとりがより良く生きると言うことそのものだと思う
現場に立ち続けるのは、どうしても時間の切り売り的な状況に陥るので
担当できる授業数は限られてしまうけれど
現場にいるからこそ
日本語教育の技術も、教育観も毎回突きつけられ、揺さぶりをかけられ、そして実践する中で、少しアップデートする、何年か前言われたことをふと理解する瞬間があったりする。
また、理論の検証にもなっている
しかし、現場の時間はいつも限られているので
授業が終わるとそこで支援が終わることがほとんど
地域の日本語教室に繋げれば、機会はつながるだろうが
無償のボランティアが大半を占めていると考えられる中
いつまでも善意に頼った施策になる
そうするとやっぱり「善意の押し付け」も生じるのではないかと言う懸念も出てきて
この堂々巡りで、どのように「仕事として」アプローチできるのかと言う視点で
考えています
その試行錯誤の繰り返しがWebサイトの引越し
具体的なビジョンは見えない中「エンパワメント」だけは確信を持っていて
そしてやっぱりそれは「現場」からしか、見えてこない
人との繋がりはライフステージやその人の成長度合いに応じて
繋がったり離れたりして
だから、固定ではなく形を変え、その時々に集う人々でできる「共有の場」
私は日本語教師として、社会にどう貢献できるだろうか。

コメント