学習者の表現を支える
- 博子 武内
- 2024年2月21日
- 読了時間: 3分
先日本をいただいた。
今年度携わった高校の日本語の授業では
迷いながら実践を繰り返す、そんな1時間、1時間を過ごし
モヤモヤが残ったままだ
そんなとき、南米こどもネットのセミナー動画を見た。
今井むつみ先生のご講演が特に印象に残り
特に「認知発達」という視点でことばの持つ意味・
そして、子どもの認知と表現を支える上で「強い言語を生かす・伸ばす」
という点に、発達段階を踏まえた子どもの教育ではもちろんのこと
その視点が言語学習者全般に通じるものではないかと思いました。
私の母語は日本語である。
日本語で理解し、考え、表現する、他の言語よりかは日本語が優勢だが
論文執筆の際は「日本語で表現しきれない」感覚によく陥る。
そして、それは結構、苦しい。「言葉を持ち合わせていない」ことが
もっと言えば
「生まれてから最もよく使用してきた母語を持ってしても、表現できない、この感覚」といった場面がときおりある。
類似表現等当てはめてみてもピタッとしない。
自分の表現したいことを言語を使って表現するとは改めて認知と密接に関わっている。
言葉での表現を通して、認知力は大人でも発達していくのだろうということ
だから
表現したい何か、言語を通じて表現するための言語で
それは学習者が決めて、学べばいいだけのこと
言語を学ぶとは、シンプルに言えばそれだけのこと
「自分にとって一番表現しやすいことば」が一番いいに決まっている。
しかし、日本において移民の持つ言語を「伸ばし、育てる」環境は十分ではない
日本は、日本語教育推進法の成立もあり、日本語政策が取られている現状で
「日本語を学んで」というスタンスとも言える
だから、日本で学べる言語は、環境面から限られているかもしれない。
移民の持つ言語を十分に活かせず、伸ばせず、やむなく、日本語にシフトせざるを得ない人も、いるかもしれない。時代・状況は異なるがかつての戦時中のように。
けれども、最も大事なことは
表現したいことを表現する「言葉の力」を持つこと
それは一人一人が自立/自律して生きることそのものである。
最近、いや、昔から方法論の是非が議論されたりすることがある
方法は手段に過ぎず
例えば、いわゆる日本語を学び始めた人が多い初級クラスで
滑らかに言えるようにするための口頭練習から、やりとりが生まれることを知っている。
伝え合おうとする中で、思いの丈を、ただ言葉を並べるだけでなく、助詞なども意識して「正確さも大事にする」ことの良さを学生と共有できることを知っている。
人が教室に集まるだけでやりとりが生じる
タスクがなくとも、聞きたい・話したいが生まれればやりとりが始まる
やり取りの中でその表現を支える、そのための言語教育
新しいことではないが
その大切さを改めて再考させられる。

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